【過去の偉人に学ぶ】明治維新の志士を育てた吉田松陰とは、どんな人物なのか。

お疲れ様です、じぇいぴーです。(^^♪

学問には、本学と末学の2種類あり、その中でも本学(人物教育、偉人教育)の重要性について書かせて頂きました。(参照:【激動の今を生きる】本学(人物教育、偉人教育)の大切さについて

本学と末学の違いはこちらにまとめています。(参照:【永久保存版】10代、20代、30代の若いうちに何を学ぶべきか?~本学と末学の違い~

ということで、本日は過去の偉人をご紹介したいと思います。

恐らく1度は名前を聞いたことがあろう、

吉田松陰

吉田松陰は、思想家であり、変革者でもあります。

変革は、

「人を育てること」

によって実現しようとしました。

吉田松陰から教えを受けた弟子たちは、高杉晋作、伊藤博文など。ご存知の通り、その後多方面で活躍していきました。

学問・教育によって人は変わる、社会も変わる。それが可能だということを、吉田松陰の人生から学ぶことができます。

できるだけ分かりやすく、書いていきたいと思います。

吉田松陰はどんな人物なのか。

長州萩城下で長州藩士・杉百合之助の次男として吉田松陰は生まれました。その後、山鹿兵学の講師の家である吉田家の養子に入りました。

20歳までは兵学を学び、25歳くらいまでは旅に学んだ時期。25歳~30歳くらいまでが活動、充実期になります。但し、そのうちの半分は護送か牢屋にいました。

つまり、数年間というわずかな期間で、後世に活躍する志士を育成したことになります。

では、もう少し詳細に吉田松陰の人となり、彼の人生に触れていきましょう!

21歳。遊学中に「アヘン遺文」を入手

21歳の頃に遊学していた吉田松陰は、長崎である本を手に入れました。

その名前は、

アヘン遺文

そこには、

「アヘン戦争がなぜ起こったのか」

が、書かれてありました。

イギリスがアヘンを流通させて、アヘンを高い価格で売るようにしたがなぜか。

それは、

『イギリスは紅茶を飲むために、その材料を諸国から買っていたが、売るものがなかったので貿易赤字をなくすためにインドでとれたアヘンを流通させた』

ということ。

そのような列強のひどい扱いがあったことを吉田松陰は学び、日本も同じように侵略されると危機感を募らせました。

その話を聞いた弟子の高杉晋作。

彼は、上海に遊学した際に、アヘン戦争に負けた後、中国が列強にペコペコしている姿を見たそうです。

『このままでは日本も同じようになってしまう』

と考えた高杉晋作は、吉田松陰亡き後、攘夷決行を決意、1863年のイギリス公館の焼き討ちに繋がっていきました。

そのような吉田松陰からの教えを、弟子の高杉晋作は受けていたようです。

22歳。海防を学ぶために東北亡命

22歳の頃に江戸に学んだ後、日本を守るために東北に亡命しました。

『日本は海洋国家なので、海が肝になる。つまり、海防を学ばないといけない』

との想いで、東北の各地を歩き回ったようです。

この時代、藩から出る場合は、今で言うところの「海外に行く」という感じでしたので、藩の通行許可が必要でした。

今で言うパスポートみたいな感じですね。

吉田松陰も申請していたのですが、結局出発までに長州藩の許可が下りていなかったようです。

しかし、東北へ行くのは吉田松陰だけではなく、他の藩も一緒でした。

『自分のせいで出発が延期になると長州藩の評価が下がる』

『約束は必ず守らないといけない』

そう考えた吉田松陰は通行手形がないまま、つまり亡命という形で東北に向かったそうです。

義理堅さが垣間見えます。

24歳。ペリーの黒船が浦賀来航

24歳の頃にペリー浦賀来航。

その頃に吉田松陰は、佐久間象山に学んでいました。

佐久間象山は漢学と蘭学(洋学)に精通している秀才。

洋学の技術のみを学んだ人に対しては、

『漢学が足りていない、人間力が足りない』

と叱ったようです。

一方で、逆に漢学だけを学んだ人には、

『西洋の技術が学び足りない』

と叱ったようです。

その佐久間象山の指示で、

『若いからその目で海外を見ろ』

と、吉田松陰に指示しました。

吉田松陰は、自身の弟子である金子重之輔と一緒に、まず長崎に行ってロシア鑑に乗ろうとしました。

ですが、既にロシア鑑は日本を出発していたので、その後、江戸に戻ってペリー来航の2回目(1854年)を狙いました。

熱心に乗船を説得したようですが、

『日米和親条約を結んださなかに乗せられない』

『君がスパイだったらまずい』

とのことで乗船を断られたとのこと。

但し、ペリーは、

『このような熱心な若者は見たことはない。日本は必ず成長する。罪は免じていただきたい』

と、幕府に手紙を送りました。ですが、吉田松陰はその後、罰として、下田の牢屋に入れられました。

25歳。野山獄で人材教育

裁判で国(自分の長州藩)に帰るように命令され、萩にある野山獄(侍向け)に入牢しました。

弟子の金子重之助は近くの岩倉獄に入ることになりました。

野山獄は、総数12室の牢屋で、吉田松陰が入牢した際に満室となりました。

罪を犯して入ったもの以外には、素行不良(酒飲んで暴れる)で家族に入れられた人が大半でした。

侍として生まれたのも関わらず、その役割を果たすことなく牢屋で日々を生きることは屈辱的。日々愚痴を言ったり、自分を見捨てたりして生きるだけの者が大半でした。

このような中、吉田松陰は1年3か月間の牢獄期間中に、なんと600冊の本を読んだようです。

当時の本は、活字が大きいので本数は今とは違うものの、もの凄い量を読んだようです。

本に感情移入して涙を垂らしながら、怒りながら本を読んだりした吉田松陰。

このような姿を見て、他の囚人11名は久しぶりに「人間の心」をみました。

『そうだ、人間は泣いたり怒ったりするもの』

ここから囚人と吉田松陰の交流が始まりました。

各々が得意なことを出し合って(書道など)、カルチャーセンター的な空間になったようです。

吉田松陰は学者、思想家なので「孟子」の輪読会を開催しました。

場所を選ばない教育。

牢屋でも囚人や、看守にも教育したようです。

目の前に人がいれば教育することができる。

人間は、

『場が整えばやりましょう』

ということが多いですが、今できることがある。

今できることをやらない人がいつやるのか。言うだけじゃだめ。行動しないといけない。

そのようなことが、吉田松陰の姿勢から学べるかと思います。

牢屋から出た後は、松下村塾で同じように講義を続けました。

27歳。松下村塾で講義を実施

吉田松陰の叔父、玉木文之進が始めた松下村塾。

松本川と橋下村に挟まれた所にあったので、松下村塾と呼ばれました。

ここでは、山鹿兵学、孟子、歴史など幅広いテーマで弟子の指導にあたったようです。

一方的に指導するスタイルではなく、塾生同士で議論させたり、得意なテーマを弟子に講義させたり。

先生でありながら、塾生と一緒に学ぶ。

当時の教育としては珍しいスタイルだったようです。

29歳。間部詮勝要撃の策謀により、再び再入獄

その後、29歳に老中の間部詮勝要撃の策謀により、野山獄に、再入獄となりました。

実際には実行してはおらず、未遂だったので、判決で島流しだったはずでしたが、大老の井伊直弼が死罪となりました。

当時は、裁判所で決まった採決を温情で変えることはありますが、それは罰を減らすことが普通でした。それが幕府の器と考えられていました。

しかし、吉田松陰に対しては罰を増やしたのです。これは幕府の末期症状。江戸幕府の終わりが近いことを暗示していたのかもしれません。

30歳。志半ばで処刑される

「かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」

江戸に最後、入獄するために向かった際に詠んだ和歌。

もう2度萩に戻ることはないという気持ちで歌ったもの。萩の町が見える最後の場所で、和歌を詠み、弟子と今生の別れをしました。

そして、30歳で処刑となりました。

おわりに

いかがでしょうか。

出来る限り、わかりやすいように記載したつもりですが、上手く伝わりましたでしょうか。

松下村塾での指導期間は、1年程度とごくわずかにも関わらず、明治維新期を支えた数多くの志士が育っていきました。

やはり、吉田松陰の祖国を憂うる気持ちの強さや、教育への熱意、志の強さ、心と心でぶつかり合う指導方針、弟子の個性を重んじた自由闊達な指導方法など、様々な要因があったのではないかと思います。

社会問題を解決するため、社会を変革するためには教育こそが全てだと自分は考えています。

全ては人から。

教育は結果が出るまで時間がかかりますが、1人1人の個性を引き出しながら、自分の地域や国を守り、発展させていきたいと思えるような人を育てることが重要だと考えています。

学校現場で教えるような末学ではなく、生きていく上で必要になる本学(論語、人物教育など)を中心とした、教育を実践していきたいと考えています。

以上です、ご参考までに。(^^♪

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ABOUT US

別称コミカルおじさん。人を笑わせたり楽しませることが好き。M-1グランプリ2018/2019出場経験あり。世界55か国訪問。学生時代はヘルシンキ大学交換留学や、トルコで海外教育インターンシップに従事。某日系メーカーに勤務しながら、米国公認会計士(USCPA)を取得。2020年3月より一般社団法人(教育事業)の副代表理事としても活動中。