【論語と算盤】新1万円札の偉人「渋沢栄一」とは、何をしたのか?どんな人物なのか?

お疲れ様です、じぇいぴーです。(^^♪

学問には、本学と末学の2種類あり、その中でも本学(人物教育、偉人教育)の重要性について書かせて頂きました。(参照:【激動の今を生きる】本学(人物教育、偉人教育)の大切さについて

本学と末学の違いはこちらにまとめています。(参照:【永久保存版】10代、20代、30代の若いうちに何を学ぶべきか?~本学と末学の違い~

ということで、本学の学びを広めるために、過去の偉人紹介の第二弾として、【渋沢栄一】をご紹介させて頂きたいと思います。(第一弾では、吉田松陰をご紹介しました)

渋沢栄一と言えば、2024年から日本の新1万円札になることで有名になりましたよね。でも、具体的に何をした人なのか、どんな人物なのかあまり分からない人も多いのではないでしょうか??

ということで、本日は、渋沢栄一がどのような人物なのかを分かりやすく簡潔にまとめていきたいと思います。

渋沢栄一の活動を振り返る中で、自分が感じたことや、学びを得たことも述べていきます!!

渋沢栄一は何をしたのか?どんな人物なのか?

彼の家は生糸の生産に携わっており、豪農として豊かな経済力を持っていました。

その後、ご縁あって名門一橋家に仕え、一橋慶喜が第15代徳川将軍になったことにより、幕府の侍(幕臣)となりました。

1867年に徳川将軍の弟徳川昭武と一緒にパリ万博に行き、そこで株式や公債売買を体験しました。

翌年1868年に大蔵省に入省して、パリでの経験を基に紙幣発行に従事。1873年に辞職して民間へ。

パリ万博の滞在期間中に、ヨーロッパにおける民間人の活躍を目の当たりにし、民間こそが大事で、それをサポートするのが行政と実感。

当時の日本では、行政の方が民間よりも立ち位置が高かったのですが、それを打破すべく、渋沢栄一は民間業界に身を投じました。

というのが、ざっと見た渋沢栄一の人生の流れですが、これだけではよく分かりませんよね。(笑)

渋沢栄一がどんな人物なのかを理解する上でのキーワードが大きく8つあります。

  1. 日本資本主義の父
  2. 活動家(多面的な人生)
  3. 信用蓄積=人脈
  4. 不思議なチャンスに恵まれる
  5. デザイン思考
  6. 大政奉還
  7. 明治新政府
  8. 思想家

それぞれ簡単に見ていきましょう。

日本資本主義の父

渋沢栄一は「日本資本主義の父」と言われているのですが、その理由としては、設立に携わった民間企業は500社以上&公共事業も600以上に亘っているからです。

すごすぎる。(笑)

医療機関や大学設立に携わり、その頃から女性教育の重要性も説いていたようです。

日本で最初の女子高等教育機関である、日本女子大学の設立に多大なる貢献したのも渋沢栄一でした。

彼は経営者として評価されており、またそれ自体素晴らしいことではあると思うのですが、彼の実態としては起業家=プランナー=始動者であったように思います。

幕末や現代のように低迷している時代には、そのように大胆に思い切って行動ができることが重要です。

今の状況を見ますと、日本を含む世界中がコロナウィルスで大変革期を迎えています。社会の在り方も大きく変化しようとしています。

このような激動の時代に求められるのは、ただの経営者や管理者、マネージャーではなく、新しい物事を率先垂範で始めていく起業家、リーダーなのかもしれません。渋沢栄一の生き方から学ぶことは多そうです。

また、渋沢栄一は、身分的に偉くなることは重視しておらず、人の役に立つようなことをどんどん実践していきました。(サンシモン主義の影響を少なからず受けているものと思われます。後述します)

このような彼の姿勢から分かるように、「会社を何個作った」というようなことは本質的(重要)ではなく、「その会社を通じて何をするのか」が重要であると感じます。

活動家(多面的な人生)

彼は、尊王攘夷の志士であり、『国をよくするのは今の幕府ではない』と考えていました。

尊王攘夷をしない幕府への反発として発生した、1860年の桜田門外の変(大老の井伊直弼を殺害した事件)や、1862年に起きた生麦事件(イギリス人を斬殺した事件)を以てしても、世の中が良くなることはありませんでした。

このような2つの出来事では不十分だと考えた25歳の渋沢栄一は、『自分たちが何とかせねばいかん』と思い立ち、尾高淳忠(後の富岡製糸場のトップ)や、従兄の渋沢喜作と、横浜の異人館を焼き討ちにする構想を描きました。

というのも、横浜の異人館を焼き討ちにすれば外国からの反発があり、幕府側は外国との戦争にならざるを得ない(攘夷になる)と。

こんな感じで、青年時代の渋沢栄一はこのような無謀なチャレンジを考える過激な人物でもありました。

このような無謀なチャレンジをしていると、大人になってからも進んでリスクを取ってチャレンジができるのだろうなあ、と感じる次第です。

で、結局、横浜の異人館を焼き討ちする計画はとん挫となり、渋沢栄一は逃げることになりました。(計画がバレてしまうと幕府から処刑される可能性が高いため)

名門一橋家の家臣になれば身を隠しやすいと考えて、一橋家の家臣であった平岡円四郎のところに転がり込みました。(名門一族の家来になったので、分かりやすい今のイメージでいうと、一流企業のサラリーマンみたいな感じです。

信用蓄積=人脈

かくして、名門一橋家の家来となった渋沢栄一ですが、一橋家のための兵隊を雇ったり、領土内の経済を潤したりするなど、その手腕をいかんなく発揮していきました。

そうすると、周りから信用を得ていき、どんどん渋沢に対して仕事が舞い込んできたようです。

このような彼の姿勢から、どんな境遇であったとしても、置かれた環境で愚直に仕事に励み、結果を出すことが重要だなと感じました。

そのように、一橋家の発展に家来(≒サラリーマン)として貢献していましたが、仕えていた一橋慶喜が第15代の徳川将軍(徳川慶喜)になることになりました。

つまり、元々、自分が倒そうと思っていた幕府側の家来になってしまったことになります。あれまっ!!!(笑)

不思議なチャンスに恵まれる

第15代徳川将軍の弟である徳川昭武が、1867年のパリ万博に参加するためにフランスへ。渋沢もそこに付いていくように提案されました。

これも、先ほどお話しましたが、家来としてしっかりと信用蓄積&実績を残していたから巡ってきたチャンスなのでしょう。『渋沢栄一であれば何とかやってくれる!!』と。

自分のキャリアや仕事の在り方にも生かしたい渋沢栄一の素晴らしい姿勢ですよね。

そこで渋沢栄一は、

  • 銀行
  • 公債
  • 会社

といったような当時日本にはなかった考えやシステムを学びました。

新しい制度を学び日本に取り入れたのが渋沢栄一の功績です。一方で、渋沢栄一と同じように同行した人の中でこのような概念を本質的に理解できた者はいませんでした。

同じものを見ても、同じ体験をしても、学びに落とし込み活かせる人とそうでない人が世の中にはいます。それは過去の経験や、予備知識、事前準備、生まれ持った能力などが必要なのでしょうかね。

この辺も、渋沢栄一の人生から学べることがありますね。

デザイン思考

大変革期においては、新しい社会をデザインすること(デザイン思考)が重要になります。

で、そのデザイン思考ですが、大きく4つに分けられます。

  • 転移
  • 延長

+は、例えば、「カレー」と「うどん」という既存のものを組み合わせて、「カレーうどん」という新しいものを作り出す思考方法。

-は、ダイソンの掃除機のように、既存の機能をそぎ落として新しいものを作り出す思考方法。

転移は、他の場所から自分の所へ持っていくこと。延長は、既存のまま延ばしていくこと。

渋沢栄一の場合は、パリという異国の地から、最先端のモノを取り入れて、日本の社会システムの中に組み込むような、「転移」のデザイン思考がとりわけ優れていたような気がします。

個人の主観ですが、このようなデザイン思考は、日本人の特性な気もします。6世紀ごろに大陸から仏教が伝来しましたが、それを異端としてはねのけずに、日本の神道とミックスさせたり。

はたまた、漢字が大陸から伝わってきても、既存の大和言葉(かな文字)と組み合わせて、新しい日本語を作り上げたり。

このような転移のデザイン思考が、日本人のDNAに刷り込まれていて、日本の新しい社会をデザインする上で重要な要素だと個人的には感じています。

大政奉還

パリ万博を終えて、パリから日本に戻る頃の1987年に大政奉還が起こり、渋沢栄一が面倒を見ていた養子が同時期に発生した上野戦争で戦死したようです。

もし帰国していたら自分も上野戦争に参加していただろうし、死んでいておかしくはなかった。救われた命だと感じたはず。

この頃に、渋沢栄一の死生観(死をも恐れずに行動する気概)が養われたのではないかと個人的に思います。

明治新政府

その後、明治維新を経て、民部省改正掛で官僚として働くこととなった渋沢栄一。この組織は、日本の課題を横断的に纏める組織です。

縦割りの行政ではだめと考えており、日本の在り方や課題をしっかりと議論できる組織が必要と考えていた渋沢栄一は、この組織の立ち上げを条件として明治新政府に入ることとなりました。

今の日本の官僚組織も縦割り行政が課題と言われていますが、当時から渋沢栄一は問題視していたんですね。

思想家(合本主義=みんなが儲かるバランスの取れた資本主義)

家臣としてお仕えしたり、明治維新後は官僚として国の発展に寄与したりするなど、官(論語)の一面を持つ一方、その後官僚を辞めて銀行を興したりするなど、民(算盤)の一面を持つ渋沢栄一。

【論語と算盤】という本が有名かと思いますが、この考え方は今まで自分が生きてきて感じてきたことの集積なのではないかと感じています。

また、民間人となった際にはあの三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎とは考え方で対立していたようです。

三菱のような「渋沢財閥」ができていれば富を集中させることなど、簡単にできたはずですが、社会貢献意識が強い渋沢栄一は、自分に富を独占させたり、私利私欲に生きることはしませんでした。

この辺は、パリの滞在中にサンシモン主義と出会っています。この主義・思想とは、産業資本家がインフラを整えて、人々の生活や社会がより良いものになるようにする思想でした。

つまり、民間人が社会のために貢献するというような考え方であり、今まで述べてきたような、私利私欲に走ることなく、社会性を重んじる渋沢栄一の考え方に少なからず寄与しているものと考えられます。

さいごに

いかがでしたでしょうか。

渋沢栄一がどんな人物なのかを、キーワードをもとにしてお伝えさせて頂きました。

渋沢栄一は、論語と算盤で述べているように、経済性と、道徳性や社会性の両立を目指していました。

今の西洋型の資本主義では、利益至上主義であり、それに伴って、物質的な豊かさは担保されましたが、反比例的に、人の幸福度が低下し、また地球環境の汚染も進んでいます。

今、このような激動の時代には、渋沢栄一が考えていたような、経済性と道徳性&社会性が両立するような、事業運営が民間企業にも求められている気がします。

会社は公器。

自社の利益追求だけではなく、まずは自社の社員の幸福、社員の家族の幸福、お客さんの幸福、取引先の幸福、地域社会の幸福、地球環境の幸福など。

幅広いステークホルダーの幸福度を高めていけるような、社会性の高い事業活動が活発になればな、と思う次第です。

その他の偉人につきましても書いてみましたので、併せてご覧ください!!

【過去の偉人に学ぶ】明治維新の志士を育てた吉田松陰とは、どんな人物なのか。

【過去の偉人に学ぶ】「坂本龍馬」とは、何をしたのか?どんな人物なのか?

以上です。ご参考までに。(^^♪

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別称コミカルおじさん。人を笑わせたり楽しませることが好き。M-1グランプリ2018/2019出場経験あり。世界55か国訪問。学生時代はヘルシンキ大学交換留学や、トルコで海外教育インターンシップに従事。某日系メーカーに勤務しながら、米国公認会計士(USCPA)を取得。2020年3月より一般社団法人(教育事業)の副代表理事としても活動中。