【過去の偉人に学ぶ】「坂本龍馬」とは、何をしたのか?どんな人物なのか?

お疲れ様です、じぇいぴーです。(^^♪

学問には、本学と末学の2種類あり、その中でも本学(人物教育、偉人教育)の重要性について書かせて頂きました。(参照:【激動の今を生きる】本学(人物教育、偉人教育)の大切さについて

本学と末学の違いはこちらにまとめています。(参照:【永久保存版】10代、20代、30代の若いうちに何を学ぶべきか?~本学と末学の違い~

ということで、本学の学びを広めるために、本日は過去の偉人紹介の第三弾として、【坂本龍馬】をご紹介させて頂きたいと思います。(第一弾で吉田松陰、第二弾で渋沢栄一を紹介しました)

坂本龍馬という名前は知っているものの、何をしたのかあまり詳しくないという方が多いのではないでしょうか?

ということで今回は、坂本龍馬がどんな人物なのか、何をしたのかについて簡単にまとめていきたいなと思っております。

坂本龍馬は何をしたのか?どんな人物なのか?

坂本龍馬は実は、生涯を通じて地位がなかった人物です。幼いころから勉強も得意ではなかったようです。

今の日本の学校教育は『客観性が重視』、つまり過去の偉人の地位や役職が重要とされるため、地位がなかった坂本龍馬は教科書から省かれる可能性が高い状況です。

しかし、現代を生きる我々日本人は、過去の偉人が「何になったのか」や「なにであったのか」ではなく、『何をしたのか』を重んじるべきだと考えています。

では、坂本龍馬は何を成し遂げたのでしょうか??大きく4つに整理されるかと思います。

1つずつご紹介していきます。

薩長同盟

坂本龍馬は尊王攘夷派の思想を持ち、今の幕府では実現できないという考えが強かったようです。(この辺は、前回ご紹介した渋沢栄一も同じ考えですね)

それで当時勢力を誇っていた薩摩藩と長州藩(非常に仲が悪い)を結び付けて幕府に対抗しようとしたのが、坂本龍馬です。

薩摩藩と長州藩は、いわば戦争をしている仲なので、2つの藩を結び付けるということは、「言うは易く行うは難し」であったことが推察されます。

同盟を結び付けることができたポイントは、『理と利』の考え方です。

理は理念であり、それは非常に重要なものです。何か物事を目指したり成し遂げる際には「理念」や「理想」というものが大事になってきます。

とは言えども、それだけでは不十分なときもあります。

この点、坂本龍馬を筆頭とする亀山社中は、長州藩が幕府に目をつけられており表立って武器購入ができない点に着目して、薩摩藩の名義で武器購入(イギリス商人グラバーから)ができるようにアレンジしました。

一方、薩摩藩が米不足に困っていたので長州藩がそれを供給する和解案を提案して、お互い利があるように調整しました。

こうして、お互いの藩がWin-Winになるような案を提示して、実行にこぎつけたことで、2つの藩を結び付けることに成功しました。

このような薩長同盟の実現から、坂本龍馬の

  • 構想力(倒幕のために薩長同盟を締結させるという構想)
  • 意志力(この薩長同盟は実は過去に1度失敗しているが、それでも何とか成し遂げるという意志力)

という2つの力を感じることができます。

大政奉還のアレンジ

坂本龍馬は大政奉還をアレンジしました。

元々は倒幕派の坂本龍馬でしたが、この大政奉還をアレンジという観点では幕府を救う形を取ったことになります。

薩長側と幕府側で争うことなく、政権を朝廷に返還させたことになります。

この坂本龍馬側の行動は、討幕派の人からすれば??な行動に映っていたことと思います。

この行動の背景として、坂本龍馬自身は、世界と日本が伍していくためには内乱をしている場合ではないという考えがあったようです。坂本龍馬の大局観が素晴らしいですね。

では、どのように大政奉還を実現したのでしょうか??

『薩長連合と戦争をしたら負けますよ!!なので戦争することなく、大政奉還を受け入れてください!』というような話をしたとしても、坂本龍馬自身は身分が高くないので多分幕府側には聞き入れてもらえない。

つまり、相手に大政奉還の提案を飲んでもらうためには、誰が言うのかが重要になると坂本龍馬は考えました。

そこで、坂本龍馬は身分が低い1人の意見ではなく、「土佐藩の意見」であるように調整しました。

前土佐藩の藩主である山内容堂は幕府と親しいため、そこから第15代将軍の徳川慶喜に大政奉還を進言するようにアレンジしました。

26歳頃から尊王攘夷運動を理想に掲げた土佐勤王党に入り、土佐藩からは脱藩していた(つまり自分が元々いた土佐藩とも敵対していた)坂本龍馬。

ですが、脱藩しており、敵対していた土佐藩の協力を得ながら、理想を実現させようとした坂本龍馬の行動から、【手段にこだわらない柔軟性】に長けているところが見て取れますよね。

亀山社中設立

勝海舟が設立した神戸海軍操練所(幕府に命じられて設立)に、坂本龍馬は28歳の頃に入っていましたが、その神戸海軍操練所は、幕府によって潰されてしまいました。

理由としては、「池田屋事件」や「禁門の変」により、幕府に敵対する過激な尊王攘夷派の志士が神戸海軍操練所にいることが発覚したためです。

そのため、坂本龍馬などの志士は行き場を失い、30歳の頃に亀山社中を設立することになりました。

徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、船の回送や運輸業、銃器のあっせんなどの商号活動も行い、「日本初の商社」といわれています。

「世の中をよくする」という本質がブレなければ、色々な手段(第3の道)を模索するのが坂本龍馬の強みです。

当時は政治や官僚で、世の中を変えるという思想があったように思われますが、利潤を得つつ世の中を変えるという新しい観点を見出したことは、坂本龍馬の素晴らしい点だと思われます。

「グローバル」と「船」という世界の最先端の流れを掴み取り、取り入れるような情報感度も坂本龍馬は高かったようです。

なお、坂本龍馬はその後、脱藩していた土佐藩に戻る形となり、また自身が亀山社中も土佐藩の組織として、「海援隊」に名前が変わることとなりました。

船中八策

船中八策とは、【近代国家の基本方針】のことを意味しています。

当時は討幕派の中で、実際に幕府を倒した後の新しい政権運営の方針案を持っている人は少なかったようです。(今風に考えると、安倍政権を倒せと言っても、その後の大方針がないのが野党という感じですね)

この船中八策において、『自分が新しい明治政権のリーダーになる』といったことを特に書かなかった坂本龍馬は『何になるのか』に興味関心が低く、『何をするのか』を重要視していたことが読み取れますね。

さいごに

いかがでしたでしょうか。

坂本龍馬は生涯を通じて地位や身分が高くない一介の武士ではありましたが、その卓越した柔軟性や行動力、大局観や理念によって、様々な出来事を成し遂げていきました。

今も昔もそうですが、また自分もそうですが、相手を見るときに、「その人は何者か」、「どんな学歴でどんな会社に勤めているのか」を見ようとしがちです。

ですが、それは本質ではないような気がしています。「身分や肩書」は、その人間のごくわずかな個性の一部であり、それよりもその人の人間性や、志、また実行していること、成し遂げたことを見ていかなければなりません。

改めて、坂本龍馬の人生を振り返ることで、そう思いました。

【坂本龍馬についてはこちらの本がオススメ】です~!!

その他の偉人についてもブログで分かりやすく書いていますので、是非ご覧ください!!

【過去の偉人に学ぶ】明治維新の志士を育てた吉田松陰とは、どんな人物なのか。

【論語と算盤】新1万円札の偉人「渋沢栄一」とは、何をしたのか?どんな人物なのか?

以上です。ご参考までに。(^^♪

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別称コミカルおじさん。人を笑わせたり楽しませることが好き。M-1グランプリ2018/2019出場経験あり。世界55か国訪問。学生時代はヘルシンキ大学交換留学や、トルコで海外教育インターンシップに従事。某日系メーカーに勤務しながら、米国公認会計士(USCPA)を取得。2020年3月より一般社団法人(教育事業)の副代表理事としても活動中。