お疲れ様です、じぇいぴーです。(^^♪
今までは日本の偉人を書いておりましたが、本日は海外の偉人についてご紹介したいなと思います。
学問には、本学と末学の2種類あり、その中でも本学(人物教育、偉人教育)の重要性について書かせて頂きました。(参照:【激動の今を生きる】本学(人物教育、偉人教育)の大切さについて
本学と末学の違いはこちらにまとめています。(参照:【永久保存版】10代、20代、30代の若いうちに何を学ぶべきか?~本学と末学の違い~
ということで、本学の学びを広めるために、本日は過去の偉人紹介の第五弾として、【孫文】をご紹介させて頂きたいと思います。
第一弾で吉田松陰、第二弾で渋沢栄一、第三弾で坂本龍馬、第四弾で松下幸之助を紹介しました!!
歴史的な事実を淡々と述べるのではなく、孫文の思想や人柄が伝わるように書いています!!
では一緒にみていきましょう!!
近代中国の基礎を作った偉人!!孫文とはどんな人物なのか。
孫文について、学校の歴史の授業で「孫文=辛亥革命」と、学んだ人も多かったのではないでしょうか。
といいますか、そのようなことはあまり学校現場で教えてもらえないですよね。まあ、偉人教育という観点で教えられていなかったので仕方ないとは思います、、、。
もっと、ただ単に歴史の出来事や年号を覚えるだけではなくて、それが起こった背景や、それを起こした人物を学ぶ教育があっても良いと感じますねー。
で、話を戻しますと、孫文は、近代中国の基礎を作った人物であり、清王朝を倒して民主主義の社会を作ろうとした人物です。
また彼は、軍事力や政治力が高かったのではなく、文章力や発信力が優れていたそうです。
英語で、政治屋のことをPoliticianと呼び、政治家のことをStates manというのですが、このStatesの文字が意味する通り、政治家の仕事としては「自分の意見や理念を発信すること」が重要です。
その意味においても、自分の理念を掲げ、それを発信して仲間を集めて実現しようとした孫文の生き方は、States man(政治家)だったように思われます。
さきほど、孫文は軍事力が高くないとお伝えしましたが、案の定、幾度なく武装蜂起は失敗したようです。
でも、『勝つまでやれば負けない』と言っていたようです。決してあきらめなかった。つまり、最後までやり抜く力(意志力や基軸力)が優れていた政治家・思想家だと言えるでしょう。
また、孫文は中国でも台湾でも尊敬されており、日本で名づけられた「中山」という名前が街の至る所で目にすることができます。
孫文がどんな人物なのか、何をした人なのかを知っておくことは、今後の日中台の関係構築において重要になるかもしれませんね。
孫文の幼少期
1866年に広東省に生まれた孫文は、普通の農家であり、貧しくもなく、またお金持ちでもありませんでした。
そんな孫文ですが、幼少のころからGlobalとLocalの経験や知見を持っていたようです。
まずGlobalの経験について、兄の影響で13歳でハワイを訪れ、その後19歳で祖国に戻るまでの間にハワイの学校で教育を受けることになりました。
また、Localについては、広東省は反骨心がある人を生む土壌でした。
アヘン戦争後に政府が重税を課したことに苦しむ農民を開放するために立ち上がった、広東省出身の英雄「洪秀全」の影響を孫文は受けていました。
このように、Globalな見識と、Localのアイデンティティをバランスよく併せ持っていたのが幼少期の孫文でした。
ハワイで過ごしたあと、19歳の頃に祖国に戻り、香港の大学に通って医学を専攻しました。孫文は実はお医者さんだったんですねー!
また孫文はキリスト教の洗礼を受け、キリスト教徒になりました。
孫文はこの頃から、自分が「この人だ!!!」と思う人の所に出向いては人脈を作ったそうです。
何か大きなことを成し遂げるためには、自分1人の力ではどうしようもなく、そのために自分の理念や、理想を発信(State)し、共感してもらい、仲間を増やすべきと、この頃から考えていたのでしょうか。
旗揚げと度重なる蜂起失敗(30歳前後)
中国にとって、1895年の日清戦争敗北は大きな意味を持っていました。
自分達より格上の欧州列強国ではなく、格下、いやそれどころか、自分たちの犬のように思っていた日本に負けたことが、中国は相当ショックでした。飼い犬に手をかまれる感じだったのでしょう。
で、孫文に話を戻すと、彼自身はその日清戦争の敗北(1895年)よりも、むしろ前に起きた清仏戦争の敗北(1885年)によって、ふがいない清王朝に対する怒り(私憤)を持つようになりました。
でも、この日清戦争の敗北を通じて、自分が持っていた私憤が、一般市民全体の怒り(公憤)に変わっていったようです。
このように、社会や体制に対する個人的な怒り(私憤)が、国民全体の怒り(公憤)に変わった時に、社会を変えていくムーブメント、革命運動に繋がっていきます。
孫文をはじめとして、国民の怒りは相当なものだったのでしょう。
日清戦争の敗北によって、遼東半島や台湾割譲など、欧州列強国と同様に日本からも支配を受ける形となりました。
古来より中国は、文化や東洋思想においてアジアのリーダーであり、日本はその足元にも及んでいなかったはずですが、そんな日本に戦争で敗北したことで、その凋落ぶりたるや目も当てられない状況であったと思慮されます。
医師として目の前の人に貢献することもさることながら、己の才や意志があるのであれば、より大局的に公益に尽くすべしといった考えを孫文は持っていたのだろうな、と若かりし孫文の行動から気持ちを察することができます。
そんな孫文ですが、社会革命を興すために、国内の様々な分野における改革案を纏めた論文(=建白書)を政府に提出しました。しかし、上手くいかなかったため、幼少期にゆかりのあるハワイで、興中会(打倒清王朝を目指す革命団体)を1894年に立ち上げることにしました。
また、ハワイでは社会改革を興すための資金集めに奔走しました。革命にはやはり色々とお金がいるんですね。
そして、資金を集めた孫文は1895年に帰国し、最初の革命である広州起義を起こしましたが、残念ながら清王朝側にバレたために失敗に終わり、その後香港へ逃げることになりました。
その後は、イギリスのロンドンにも逃亡しましたが、運悪く清国の公使館に囚われて処刑されそうになりました。
しかし、「私がキリスト教徒だから殺されるんだ!!!」とイギリス国民の感情に訴えかけて、イギリス政府が釈放を求め、無事に処刑を免れることができたようです。
康有為(今でいう総理大臣級の有名人)が清王朝の内部から改革を目指す保皇会を作っていましたが、孫文はそことは組みませんでした。
実際、孫文は幼少期の頃から人脈を作るのが得意で、色々な人と組む傾向があるのですが、この時は組みませんでした。
2人とも中国の近代化に向けた改革を目指したので、その大きな方向性は同じではあるのですが、ポリシーが異なっていました。
「大同小異」という言葉があるように、大を取って小は捨てるという意味ではありますが、孫文は小さいこだわり(ポリシー)も捨てなかったようです。
というのも孫文は、『清王朝を維持しながらの改革は不可能』という考えがあり、また『日本の明治維新も天皇は残してはいるものの、当時の実行支配権力を有していた江戸幕府は倒幕している』という考えがあったようです。
つまり、実効支配権力を持っていた組織(幕末の日本では江戸幕府、中国では清王朝)を倒さずして、民主化に向けた改革はできないと考えていたようです。
保皇会と、孫文のそれぞれのポリシーとして、清王朝を残すか残さないかという違いがありました。民主化を目指すという目的は同じであっても、それぞれのポリシーの違いが、孫文としてはどうしても譲れないポイントだったようです。
このように、やはり自分の中で絶対に譲れないポイントを持つこと、つまり基軸力は重要であると思うし、それがないと大切な決断や行動もできないと思いました。孫文の生き方から学ぶことは多々ありますね。
さいごに
いいかがでしたでしょうか。
孫文の民主化に向けた行動はその後も続いていきますが、孫文がどんな人物なのかを簡単ではありますが、お伝えさせて頂きました。
お医者さんとして働きながらも、清仏戦争や、日清戦争の敗北を目の当たりにして、国内の弱体化を変えようと立ち上がった孫文。自らの人生を、社会変革という大業のために投げ打った、志高い、まさしく偉人といえるかと思います。
今日本には、自国の危機や有事の際に、どれくらいの人が立ち上がるのでしょうか。このようなスケールの大きい人物はいるのでしょうか。また今後現れるのでしょうか。
こんな偉そうなことを言いながらも、まだまだ自分の生活のことで精いっぱいですが、孫文ほどではないにせよ、もっと社会のために生きられるようなスケールの大きい人物になりたいなと思う次第です。
以上です、ご参考までに。(^^♪