お疲れ様です、じぇいぴーです。(^^♪
本日は松下電工(現パナソニック)の創業者である松下幸之助翁について、書いていきたいと思っております。
学問には、本学と末学の2種類あり、その中でも本学(人物教育、偉人教育)の重要性について書かせて頂きました。(参照:【激動の今を生きる】本学(人物教育、偉人教育)の大切さについて
本学と末学の違いはこちらにまとめています。(参照:【永久保存版】10代、20代、30代の若いうちに何を学ぶべきか?~本学と末学の違い~
ということで、本学の学びを広めるために、本日は過去の偉人紹介の第四弾として、【松下幸之助】をご紹介させて頂きたいと思います。(第一弾で吉田松陰、第二弾で渋沢栄一、第三弾で坂本龍馬を紹介しました)
分かりやすく書いていきますので、ぜひご覧ください~!!
大経営者!松下幸之助とはどんな人物なのか?
松下幸之助の半生
幼少期
1894年和歌山県生まれ。松下幸之助翁のおじいちゃんは事業を成功させて村会議員をやっていたようです。
こういう人が身近にいると自分も同じようになるものだと実感します。松下幸之助翁も民間人として事業を成功させたのちに、政治を改革することを志て、晩年には松下政経塾を開きましたね。
そんな松下幸之助翁ですが、8人兄弟の末っ子であり、7人の兄弟が20代~30代でなくなっていったようです。
ですので、『次は自分の番か』と思い、死を身近に感じていたことと思われます。何か志を持って成し遂げるような方は、必ず死生観を持っていたように感じます。
その後、父親が事業に失敗し、当時の貧困生活の経験から、父親は幼い幸之助翁が商売人として立派に食べていけるように丁稚奉公(最初は火鉢屋さん)に出されることとなりました。松下幸之助翁がまだ9歳の頃となります。
母親とそこで離ればなれ(紀ノ川駅での別れ)になり、その後父親が亡くなった後に母親は再婚することになりました。
なお時代的には火鉢が流行ってはおらず、松下幸之助翁が入った3か月後には閉店することになりました。その後、自転車屋さんへ。そこの奥さんに、お母さんのような親しみを感じていたようです。
幼いころから母親と離れ離れになっていたので当然そうなりますよね。
自転車屋さんの社員みんなで写真を撮る予定で、幸之助翁も楽しみにしていたようですが、自転車の配達に行っている間に終わってしまっていたようです。
泣いて、ひどく落ち込んだ幸之助翁でしたが、その奥さんが悲しみに暮れている幸之助翁を思いやり、2人で撮りに行ってくれたとのこと。この写真は生涯大切に持ち続けていたようです。
血のつながっていない自分にも家族のように優しく接してもらっていたようであり、そこから家族経営思想が生まれたのではないかと考えられます。
なお、この自転車屋さんで、5年4か月の時を過ごした松下幸之助翁は、家族の温もりや、また商売の厳しさを身を以て体験したようです。
15歳の決断
この頃は、路面電車が走るなど時代の変化を感じていた松下幸之助翁は、お世話になった自転車屋さんをこっそりと辞めて大阪電燈(現在の関西電力)に入社することとなりました。
そして、18歳の頃には、「出世のためには学問が必要」と考えて学校(関西商工学校)に通うことになりました。
電気科に入学した松下幸之助翁でしたが、授業についていけず、「自分には学歴をつけて社内出世することは難しい」と考えて独立を考えるようになりました。
学校の勉強もあまりよくなく、また実は健康も良くなかった松下幸之助翁でしたが、常にポジティブでした。
健康がダメで寝込むことが多いのであれば思考時間に費やすことができると考えて夜な夜な読書に耽っていたそうです。
そして20歳の頃に結婚することとなりました。
22歳で独立
大阪電燈で、仕事の実績を重ねて検査員になっていた松下幸之助でしたが、自分でつくったプロトタイプのソケットを当時の上司に、『こんなのつかいもんにならない』と批判されたことにより独立を決意しました。
松下電工設立。数多くのヒット商品を生む
物事や製品を発明する際には発想が大きく2つあります。
- プロダクトアウト
- マーケットイン
プロダクトアウトとは、マーケット重視というよりも自社内の作り手が良いと思ったものを作るという発想です。成田昭夫氏のSonyのウォークマンや、スティーブジョブズ氏のApple社のI phoneはその典型例ですよね。
で、マーケットインはその文字通りで、市場が必要としているものを作るという発想です。
電気をつけたい人とアイロンを使いたい人が同時にいることを見聞きした松下幸之助は、それらが同時に使えるプラグを製造しました。ですので、世の中のニーズを掴んで製品を作っていくというマーケットインの発想を持っていたことが分かります。
で、事業を着実に進めていった松下幸之助でしたが、自社の製品のブランドを「ナショナル」にすることを決めました。これは、「国民のための製品」という意味が込められていたようです。
会社や、自社の製品を通じて人々の暮らしや、社会を良くしようと考えていた、松下幸之助の偉大な志を感じることができますよね。
そして、1929年の世界大恐慌の時にはモノが売れなくなってしまい、従業員が松下幸之助翁にリストラを提案したようです。
ですが、製造と販売を一致させる(製販一致。製造部の人間も販売に回ることで売り上げを伸ばそうとしたこと)などの方法で、何とかクビにしないようにした。社員は家族同然と考えていた松下幸之助翁の考えが良く分かってきます。
このように見ていくと、松下幸之助翁は幼少期から様々な境遇に置いて恵まれていなかったようです。家計が苦しくて丁稚奉公に出されたり、兄弟を全員失ったり、父親が亡くなったり、母親が再婚したり、健康状態が良くなくて寝たきりになったり、会社の経営危機を経験したり。
それを思うと、如何に自分は恵まれているのか、と思わざるをえなくなってきますよね。
松下幸之助を理解するためのポイント
次に、松下幸之助翁の特徴についてみていきたいなと思います。自分が言うのもおこがましいですが。(笑)
考え抜く力がピカイチ
松下幸之助翁は徹底的に考え抜く力が強かったと思われます。絶えず読書や、考えにふけていたそうです。
なお、思考力は3要素に分解【①地頭×②思考時間×③思考意欲(集中度)】にされるのですが、松下幸之助は特に思考時間をかけて徹底的に考え抜くことに優れていたようです。
なお、思考意欲は何を意味しているかと言うと、例えば、算数だと考える意欲がないが、教育に関してだとずっと考え続けられるというものである。
これは自分の身体が弱くて、寝た切りの日々も多かった松下幸之助翁の一見すると、ネガティブで逆境的な状況を、ポジティブかつ、自分の成長に変えていた典型的な例だと思います。
とらわれないことに長けている
松下幸之助翁の特徴として、とらわれないことが挙げられるかと思います。それを3つの観点でご紹介したいと思います。
ビジネス手法
松下幸之助翁は、自社の製品を売るために、無料サンプルを配ったり、また先ほど述べたような製販一致体制を築くなど、過去のビジネスの常識にはとらわれずに行動してきたと見受けられます。
組織制度
事業部制を日本で初めて導入し、各事業部に採算の責任所在を持たせるようにした。これも日本初なので、過去の組織体制にとらわれずに、変革して行く特徴が垣間見えますね。
水道哲学
松下電工の経営哲学の中に、「水道哲学」というものがあり、貴重なモノでも沢山世の中に普及すれば奪い合いならないという発想の哲学です。
この時代は、まだまだ貧しくて、国民に十分なものが行きわたっていない時代でしたが、物質や製品を水を得るかのごとく、広く国民に行きわたらせれば、みんなの幸せにつながるという考えです。
自社の利益のために会社を運営するというよりも、国民の生活や幸福度向上のために、事業を運営していたことが良く分かる哲学ですよね。
PHP(peach and happiness through prosperity)という言葉があり、これは「繁栄によって平和と幸福を」という意味のことばです。物心ともに豊かな真の繁栄を実現していくことによって、人々の上に真の平和と幸福をもたらそうという願いを表したものです。
自分の想いを実現させるためにPHP研究所を松下幸之助翁は設立し、それは現在でも続いています。
商売に対する考え方
松下幸之助翁の商売に対する考え方は、大きく3つあります。
- 自分がやっている商売の社会的な意義があること。
- 相手の心が読めること(=マーケットイン)
- 相手よりも頭が下がっていること。
どれも「なるほどな」と思うものばかりですね。
さいごに
いかがでしたでしょうか。
日本の大経営者松下幸之助翁の生涯や、どんな人物なのかを簡単に記載させて頂きました。正直自分みたいな人間が紹介するのもおこがましいのですが、、、概要だけでも伝わりますと幸いです。
松下幸之助翁は、過去の不遇から事業を興して、そこでの苦難・困難も経験しながら拡大していきました。
そのような苦難・困難を経験し、それを乗り越えた人だからこそ、人生に深みが生まれ、その人生や、その人物から発せられる言葉に救われる人も多いのではないかと思う次第です。
松下幸之助翁が、製品やモノの普及・繁栄によって人や社会全体の幸福度を高めることを目指され、それは今日において、ある一定達成されたと思います。
しかし、今の社会は、もう昔のように、モノや地位・名誉を手に入れるだけでは、幸福を感じることができない程成熟してきました。
そのような中において、今後どのように幸福度を高めていくのか、何に幸せを感じるのかを考えるのは、国民我々1人1人の課題のような気がしてなりません。
それが今の日本を作ってくださった松下幸之助翁をはじめとした、先人に対する恩返しだと感じる次第です。
その他、過去の偉人についてご紹介しているので、そちらも併せてご覧ください~!!
【過去の偉人に学ぶ】明治維新の志士を育てた吉田松陰とは、どんな人物なのか。
ではさっそく松下幸之助翁の半生から見ていきましょう~!晩年の活躍が注目されていますが、実は幼少期から不遇だったんですよね、、、!